自分が描いた絵に対して、SNS上で 「デッサンがおかしい」「パースが破綻している」 といった言葉を目にした。
その中で、内容そのもの以上に強く印象に残ったのは、 それらがすべて 「匿名」 だったことだ。
名前もない。 立場もない。 実績もない。 責任もない。
ただ言葉だけが、そこに置かれていた。
今日は、この「匿名性」と「プロとしての責任」について、 一度きちんと整理しておきたい。
匿名性は自由だが、評価の資格ではない
匿名で意見を言えること自体は、悪いことではない。 誰もが自由に感想を述べられる場は、確かに必要だと思う。
ただし、匿名である以上、その言葉は「評価」にはならない。
なぜなら匿名の言葉は、
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発言によって失うものがない
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間違っていても訂正する義務がない
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相手の仕事や人生に影響が出ても責任を負わない
つまり、リスクを一切伴っていないからだ。
リスクを負わない言葉は、 どれだけ強く見えても、重さを持たない。 これは感情の問題ではなく、構造の問題だ。
プロの仕事は、常に名前と責任の上にある
一方で、商業の現場で描かれる絵は匿名ではない。
クライアントの名前。 シリーズの歴史。 作品を待つファンの期待。 そして、描き手自身の名前。
それらをすべて背負った上で、一枚の絵として世に出ていく。 そこには常に、失敗できない緊張感と、言い訳のきかない責任がある。
この前提を欠いたまま語られる「正しさ」は、現場では参照されない。
「教科書的な正しさ」は、仕事の正解ではない
匿名の批評で多いのが、 デッサン、パース、比率といった 要素単体の正しさだけを根拠にした否定だ。
もちろん、それらは重要だ。 ただし、それは目的が一致している場合に限られる。
商業作品には、明確な役割がある。
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何のために描かれ
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どこで使われ
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誰に届くのか
画面としての気持ちよさ、 一瞬で世界観に引き込む密度、 物語の入口として機能するかどうか。
それらを無視した定規のような「正しさ」は、 むしろ作品の魅力を削ぐことすらある。
プロの現場では、魅力的な嘘を成立させること自体が技術なのだ。
作品と、現場からの評価がすべて
勘違いしてほしくないのは、 公式のイラストというものが、 個人の裁量だけで描かれ、公開されているわけではないという点だ。
そこには、 複数の企業による監修があり、 権利元による厳密なチェックがあり、 多くの専門家の目を通した判断がある。
それらすべてを経て、 「これで世に出す」と決定されたものだけが、 公式の成果物として公開される。
言い換えれば、 これは一人の感覚や好みだけで成立している絵ではない。
そのプロセスを知らず、 何も背負わずに投げられる匿名の意見と、 数多のプロフェッショナルの判断を、同じ重さで扱う理由は最初から存在しない。
そしてありがたいことに、 長年お付き合いのある公式の取引先の方々からは、
「原作者のタッチや空気感を、誰よりも理解し表現できている」
という評価を、直接いただく機会も多い。
その言葉に甘えるつもりはないが、 現場での信頼とは、そうした積み重ねの上に成り立つものだと思っている。
そうした現場の「生の声」と、 継続して重要な仕事を任せていただけるという事実。
多くの人の目に触れ、 公式の場で使われ、 役割を果たしていること。
それが、僕が出せる「答え」のすべてだ。
顔と名前を出すということは、覚悟を出すということ
顔と名前を出して意見を言うというのは、 その言葉に責任を持つということだ。
間違っていた場合の訂正。 信用の低下。 立場が問われる可能性。
それらを引き受けた上で発せられる言葉は、 自然と慎重になり、重みを持つ。
だからこそ、 名前のある言葉だけが、現場に届く。
否定されて心が動くのは、真剣にやっている証拠だと思う。 ただ、すべての言葉に同じ重さを与える必要はない。
名前を持つ人間は、名前を持つ言葉だけを選べばいい。 それで、十分だと思う。
