誰かに文句を言われる。
フリーランスだろうが、会社員だろうが、社長だろうが、この世で働いている限り、それは避けられない。社長ですら株主に文句を言われる。上場企業の経営者が株主総会で吊し上げられるのは、もはや風物詩だ。「お前の判断は間違っている」「もっと利益を出せ」「なぜこの方向に舵を切った」——自分の会社なのに、自分より現場を知らない人間から詰められる。
これを僕は「文句言われる負債」と呼んでいる。
負債は、関係性の中に生まれる
借金と同じだ。誰かからお金を借りれば、返済するまでその人に頭が上がらない。それと同じ構造が、仕事の関係性の中にも存在する。
クライアントからお金をもらっている。だから文句を言われる。それは理解できる。対価を払っている側には、成果物に対して意見を言う権利がある。そこに異論はない。
でも、世の中にはもう一つ、もっと厄介な構造がある。
「自分では何も作らないが、権利だけを持っている人間」からの文句だ。
作らない人が、作った人に口を出す構造
これはクリエイティブの世界では珍しくない。むしろ、業界の構造そのものと言ってもいい。
ある作品がある。その作品を生み出した人間がいる。しかし、その作品の「権利」は別の場所にある。権利を持つ側は、作品の品質を守るという名目で「監修」という工程を持つ。監修とは要するに、チェックして、直しを入れる権限のことだ。
ここで考えてほしい。
その監修をしている人は、その作品を生み出せるのか?
多くの場合、答えはノーだ。自分では一本の線も引けない人間が、線を引ける人間の仕事に赤を入れる。自分では一文字も書けない人間が、書ける人間の原稿を「ここ、違いますね」と差し戻す。
もちろん、監修には意味がある。品質管理は必要だし、ブランドの一貫性を守るためにはチェック体制が不可欠だ。それ自体を否定するつもりはない。
ただ、問題はその「精度」だ。
作品を深く理解している人間の監修は、的確で、建設的で、作品をより良くする。一方、権利を持っているだけの人間の監修は、的外れで、恣意的で、作品を悪くすることすらある。後者に当たったとき、クリエイターは静かに消耗する。
文句を言われること自体が、コストになる
ここで重要なのは、文句の内容が正しいかどうかではない。
「文句を言われる」という状況そのものが、時間と精神を削るコストだということだ。
的外れな指摘に対して、丁寧に説明する時間。理不尽な修正に対応する時間。「なぜこの人に説明しなければならないのか」というストレス。これらすべてが、本来なら新しい作品を生み出すために使えたはずのリソースだ。
つまり、「文句言われる負債」とは、関係性の中に埋め込まれた見えないコストのことだ。金利のように、じわじわと時間と気力を蝕んでいく。
負債を減らす、という戦略
借金なら、返済すればいい。でも「文句言われる負債」は、返済では消えない。構造そのものを変えなければ、永遠に利息を払い続けることになる。
じゃあどうするか。
答えはシンプルだ。「文句を言われるポジション」から、静かに移動する。
これは逃げではない。設計だ。
自分の仕事の価値を正しく理解してくれる相手とだけ組む。的外れな監修が入る構造からは、角を立てずに距離を取る。「もうこの工程は不要ですよね」と、実績で証明してから提案する。時間はかかる。でも、一つずつ負債を消していけば、ある日気づく。文句を言われる回数が、劇的に減っていることに。
負債を消した先にある、皮肉な現実
実際に僕は、この「文句言われる負債」を一つずつ消してきた。的外れな監修が入る工程からは距離を取り、信頼で任せてもらえる関係だけを残すように、何年もかけて構造を変えてきた。
その結果、僕自身は確かに楽になった。無駄な修正に費やす時間は減り、精神的な消耗も減った。
でも、ここに一つの皮肉がある。
本来、もっといいものが世に出るはずなのだ。
自分の力を存分に使えれば、もっとクオリティの高いものを届けられる。でも、作品を作れない人間が権利だけを持って間に立つ構造が残っている限り、その機会は生まれない。僕が関わらないことで負債は消えるが、同時に、その作品が本来到達できたはずの高さにも届かなくなる。
これは、誰も得をしていない状態だ。
クリエイターは力を発揮できない。受け手は本来のクオリティを受け取れない。権利を持っているだけの中間層だけが、自分の存在意義を守るために工程を維持し続ける。そして誰も、その構造がもたらしている「損失」に気づかない。気づいていても、声に出せない。
負債を消すという行為は、自分を守る選択としては正しい。でもそれは同時に、「本来あり得た最高の結果」を手放す選択でもある。この矛盾を飲み込めるかどうかが、フリーランスとして長く生きていくための、一つの覚悟なのだと思う。
だから僕は、投資の世界に踏み込んだ
クリエイティブの仕事では、どれだけ構造を変えても、完全に「文句言われる負債」をゼロにすることは難しい。クライアントがいる以上、何かしらのフィードバックは発生する。それは仕事の性質上、仕方がない。
でも、投資は違う。
自分の判断で買い、自分の判断で売り、自分の判断で持ち続ける。その結果が良くても悪くても、文句を言ってくる人間はいない。すべての責任が自分にあり、すべての決定権が自分にある。誰かの承認も、誰かの監修も、誰かの許可もいらない。
これは、僕にとって革命的な発見だった。
「文句言われる負債」がゼロの世界が、ちゃんと存在したのだ。
個人であることの強さ
社長が株主に文句を言われるのは、会社という構造の中にいるからだ。株式を発行した時点で、その会社は社長だけのものではなくなる。他人の金を預かっている以上、他人の口出しを受け入れなければならない。
でも、個人には株主がいない。
自分の資産を、自分の判断で、自分のために使う。誰にも説明する義務がない。誰の顔色もうかがう必要がない。この「株主不在」という状態こそが、個人であることの最大の強みだと僕は思っている。
SNSという、自ら背負う負債
一方で、せっかく個人として身軽でいられるのに、自分から「文句言われる負債」を背負いにいく人がいる。
SNSだ。
何かを発信すれば、必ず文句が来る。よく知りもしない人間が、よく読みもせずに、よく考えもせずに、文句を言ってくる。それは仕事の関係でもなければ、信頼関係があるわけでもない。ただ「発信した」というだけで、見知らぬ人間から無限に文句を言われる権利を相手に与えてしまう。
これは、自分で自分に負債を発行しているようなものだ。
もちろん、SNSには発信力というメリットがある。仕事につながることもあるし、ファンとの接点にもなる。それを否定するつもりはない。でも、そのメリットと引き換えに背負う「文句言われる負債」の金利は、思っている以上に高い。
僕がSNSでの積極的な発信を選ばないのは、この計算の結果だ。負債の金利が、リターンに見合わない。
究極の個人
「文句言われる負債」を人生から消していく。仕事の構造を変え、関係性を選び、発信の仕方を考え、収入の柱を分散させる。一つずつ、静かに、でも確実に。
その先にあるのは、誰の顔色もうかがわず、自分の判断で生きている状態だ。
社長ですら到達できないその場所に、個人だからこそ到達できる。株主総会もない。取締役会もない。監修もない。あるのは、自分の決断と、その結果だけ。
それが、僕の考える「究極の個人」だ。
もちろん、信頼できる相手からの意見には耳を傾ける。それは負債ではなく、資産だ。自分を成長させてくれる声を聞き分ける力は、負債を消していく過程で自然と身についていく。
文句言われる負債を、一つずつ消していこう。その先に、自分だけの自由がある。
