昨日、上野動物園に行った。
土曜日。園内は人でごった返していた。家族連れ、カップル、子どもの歓声。どこを歩いても、誰かの笑い声が聞こえてくるような日だった。
そんな混雑の中を歩いていて、ある檻の前で足が止まった。
バイソンだった。
誰も見ていない、一頭の巨体
でかい。
見上げるような巨体。筋肉の塊。曲がった背中に、分厚い毛。あの独特の、前かがみのシルエット。
でも、狭い檻に閉じ込められていた。
たった一頭だけで。
仲間もいない。広い草原もない。ただコンクリートと鉄柵に囲まれた、狭い空間の中で、無言で立っていた。
そして、誰もバイソンを見ていなかった。
盛り上がっていたのは、手前のプレーリードッグ
バイソンの檻の手前には、プレーリードッグのエリアがあった。
小さくて、かわいくて、ちょこちょこ動く。子どもたちが歓声を上げ、大人たちも笑っている。スマホを構える人、しゃがんで覗き込む人、「かわいい〜」という声があちこちから上がっていた。
その熱気のすぐ奥で、バイソンは立っていた。
誰も振り返らない。
あれだけの迫力、あれだけの体格、あれだけの存在感を持っているのに、誰もその奥にいるバイソンには目をくれなかった。
みんな、手前のかわいいやつに夢中だった。
バイソンを見ていたのは、俺だけだった。
少し前の俺だった
胸の奥がざらっとした。
これ、少し前の俺だ。
13年間、名前の出ない場所でひたすら描いてきた。何万枚ものカード、グッズ、キービジュアル。巨大なタイトルの裏側で、ひたすら線を引き続けた。
技術は積み上がった。業界の重鎮から「代わりがいない」と言われるところまで来た。
でも、誰も俺を見ていなかった。
みんなが盛り上がるのは、表に出ている華やかな「プレーリードッグ」の方だ。SNSで輝くフォロワーの多い作家、名前が前に出る創作者、バズる投稿をする人気者。その熱狂のすぐ奥で、名前のないまま、ひたすら巨体を維持するために描き続けていた自分がいた。
バイソンは鳴かない。
プレーリードッグみたいに愛嬌を振りまかない。
ただ、でかい。ただ、そこにいる。それだけだ。
曲がった背中の理由
バイソンの背中は曲がっている。
あれは、重い頭を支えるために筋肉が発達した結果だと聞いたことがある。本来なら広い草原を駆けて、その筋肉を使って生きるはずだった。
でも、檻の中では駆ける場所がない。
筋肉は残っているのに、使う場所がない。でかい図体は残っているのに、広げる場所がない。
これも、少し前の俺と同じだった。
13年以上かけて身につけた鳥山明タッチの再現技術。あらゆる時代の絵柄を描き分ける力。監修の嵐を潜り抜けて、ただ一人の窓口として立ち続けた経験。
でも、それを発揮する場所は、常に「誰かの依頼の中」だった。自分の名前で、自分の意思で、自分の場所で使える機会は、長い間なかった。
筋肉は残っているのに、使う場所がない。
あの感覚を、バイソンの背中に見た気がした。
俺の背中も、バイソンと同じ形だ
これは比喩じゃない。
俺の背中も、バイソンと同じ形で曲がっている。
絵描きは、背中を丸めて仕事をする。机に向かって、頭を下げて、手元の線に集中する。何時間も、何日も、何年も、同じ姿勢で。
13年以上、その姿勢で仕事をしてきた。背骨は、その時間の形を記憶している。鏡で横から見ると、少し猫背になっている。これは筋肉と骨が、仕事の証として残した形だ。
バイソンの背中は、重い頭を支えるための筋肉が生んだ隆起だ。
絵描きの背中は、繊細な線を引くために頭を下げ続けた時間が作った曲線だ。
形は似ている。でも意味は違う。
バイソンの背中は「力の証」。絵描きの背中は「消耗の証」。同じように丸まっていても、その中身は正反対だ。
ただ、一つ共通点がある。
どちらも、生きるために必要だった形だということ。
草原を駆けるために、バイソンはその形になった。線を引き続けるために、俺はこの形になった。選んだわけじゃない。仕事が、生活が、時間が、そういう形を身体に刻み込んだ。
動物園のバイソンを見たとき、曲がった背中越しに自分の背中が見えた気がした。
違いは、治そうとしているかどうか
ただ、決定的な違いがある。
俺は今、その曲がった背中を直そうとしている。
週2回、鍼に通っている。1回3時間。1年で220万円以上使った。整体にも通って、筋膜を緩め、骨格を戻し、凝り固まった筋肉をほぐしていく。朝はランニング、ダッシュ、筋トレ。身体を伸ばす時間を、毎日意識的に作っている。
バイソンにはそれができない。
檻の中で、誰もケアしてくれない。獣医は来るかもしれないけど、それは病気になった時の話だ。日常的に身体を整える手段がない。バイソンの背中は、一度曲がったらそのままだ。
過去の俺も同じだった。
仕事に追われて、身体のメンテナンスに時間を割く余裕がなかった。鍼に行く時間も、整体に通う時間も、ストレッチする時間も、全部「後回し」だった。曲がった背中を、そのまま放置して、次のラフに取りかかった。
でも今は違う。
交渉が通ってから、身体をケアする時間が確保できるようになった。収入が安定し、鍼に月20万円使っても生活が揺らがない状態を作った。身体を直すことを、仕事と同じくらい優先順位の高いタスクにできるようになった。
背中はまだ曲がっている。すぐには戻らない。13年以上かけて作られた形は、そう簡単にはほどけない。
でも、ほどけていく方向には進んでいる。
バイソンの背中は、これから先も曲がったままだ。
俺の背中は、少しずつ、ほどけていく。
この違いは、大きい。
結局、見た目が全てという残酷な事実
認めたくないけど、認めざるを得ない事実がある。
世の中は、見た目で決まる。
プレーリードッグとバイソン、両者の「生き物としての凄み」を比べたら、バイソンの方が圧倒的に凄い。北米大陸を何千万頭と駆け抜けた歴史。あの筋肉。あの骨格。狼の群れすら押し返す力。
でも、動物園で人が集まるのはプレーリードッグだ。
小さくて、丸くて、表情が読み取りやすくて、SNS映えする。それだけで勝ちだ。
中身の濃さも、積み上げた年月も、生き物としての完成度も、ほとんど関係ない。見た瞬間に「かわいい」と思わせた方が勝つ。
この構造は、人間社会でも変わらない。
SNSで伸びるのは、映える見た目を持つ人間だ。技術があっても、見た目が地味なら埋もれる。中身がなくても、見た目がキャッチーなら拡散される。
フリーランスでも同じだ。実力があっても、プレゼンが下手なら仕事が来ない。技術が高くても、SNSで絵が映えなければフォロワーは増えない。「発信力」という名の、見た目勝負。
バイソンはどれだけ立派でも、プレーリードッグには勝てない。
これは悲しいけれど、現実だ。
その現実を認めた上で、どう生きるか。それを考えないと、ただ拗ねて終わる。
バイソンに共感できるのは、バイソンだった人間だけ
プレーリードッグを見て笑っている人たちを責める気は、微塵もない。
それが正しい世界の見方だ。動物園に来たら、かわいいやつに盛り上がる。それが自然で、それが健全だ。
バイソンを見て切なくなる人間の方が、おかしい。
でも、バイソンに共感できるのは、バイソンだったことがある人間だけだ。
檻の中で、誰にも見られず、筋肉だけを維持して生きてきた時間を知っている人間だけが、あの曲がった背中に自分を重ねることができる。
それは悲しいことじゃない。
むしろ、それを知っていることが、自分の財産だと思う。
プレーリードッグに夢中な人たちは、プレーリードッグの世界を生きている。それはそれで、素晴らしい。
俺はバイソンの世界を見てきた。それも、それでよかった。
でも俺は、檻の外に出た
しばらくバイソンを見ていた。
周りの歓声は、ずっとプレーリードッグの方から聞こえていた。
そして気づいた。
俺はもう、檻の中にはいない。
交渉を通して、時間の使い方が変わった。監修の鎖から離れて、自分の裁量で動けるようになった。朝はちゃんと走れるし、ブログで自分の言葉を発信できる。「代わりがいない」という呪いから、少しずつ抜けてきている。
バイソンは檻の中にいる。俺は檻の外から、それを見ている。
ついこの間まで、俺もあちら側にいた。
違うのは、バイソンには選択肢がなかったということだ。あの巨体でどれだけ願っても、鉄柵は開かない。草原には戻れない。
俺には、選択肢があった。
声を上げる選択。条件を出す選択。断る選択。名前のある仕事を選ぶ選択。それを全部、少しずつ使ってきた。だから今、檻の外にいる。
誰も見なくても、そこに在る
面白いのは、誰に見られなくても、バイソンはバイソンだったということだ。
プレーリードッグに客を取られても、スマホを向けられなくても、歓声を浴びなくても、バイソンのでかさは1ミリも減らない。あの存在感は、観客の視線に依存していない。
評価されなくても、スキルは積み上がる。
名前が出なくても、絵は残る。
誰にも見られなくても、描いた事実は消えない。
名前のない15年間、俺の中に積み上がったものは、あのバイソンの筋肉と同じだ。誰にも見られなくても、そこに在る。それは消えない。
檻を出たら、何を描くか
動物園を出て、少し歩いた。
あのバイソンのことが、しばらく頭から離れなかった。
俺はもう檻の外にいる。でも、檻の中にいた時間は消えない。あの時に積み上げた筋肉は、これから自分の場所で使う。自分の名前で、自分の意思で、自分の作品として。
誰も見ていなかったバイソンに、少しだけ「見てるよ」と言いたくなった。
あの時間は無駄じゃない。
今はまだ誰も気づかなくても、お前の背中の筋肉は本物だ。
いつか檻が開く日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
でも、誰に見られていなくても、お前はそこに在る。
それだけで十分だ。
