締め切りを守る。
そんなもの、仕事として当たり前だ。
プロなら守れ。以上。——で終わる話だと、大半の人間は思っている。
でも私にとっての「守る理由」は、もう少しだけ深いところにある。
プロ意識とか、信用とか、そういう綺麗な言葉の手前にある、もっと生々しい景色から来ている。
深夜2時の制作進行
タツノコプロにいた頃の話をする。
私はアニメーターだった。動画や原画を描いていた。
アニメの現場には「制作進行」という職種がある。原画や動画の上がりを回収して、次の工程に渡す。スケジュールを管理し、素材を繋ぐ。地味だが、彼らがいなければアニメは1秒たりとも完成しない。
ある晩、私が徹夜で作業していると同じ時間に制作進行がスタジオにいた。
深夜2時を過ぎていた。
「なんでまだいるの?」と聞いた。
「上がってこないんで」と返ってきた。
アニメーターの原画が上がってこない。だから帰れない。
制作進行はやることがない。ネットで時間を潰している。ただ待っている。ひたすら、待っている。
気になって作画部屋を覗きに行った。
当の本人は、床に寝ていた。
呑気に、床で、寝ていた。
制作進行を深夜まで待たせておきながら。
その人間の睡眠時間も、家族との時間も、恋人との約束も、全部奪っておきながら。
自分は寝ている。
あの光景を、私は今でも忘れていない。
待たされる側の人生
クリエイターが遅れると、その下流にいる全員の時間が止まる。
編集者が待つ。制作進行が待つ。デザイナーが待つ。印刷所が待つ。
待っている側にも人生がある。恋人がいる。子どもがいる。友人との約束がある。眠りたい夜がある。
担当者はデートにも行けなくなる。家族との時間も消える。
自分の人生を犠牲にして、ただ待つことになる。
それは漫画の世界だけの話じゃない。アニメでも、イラストでも、構造はまったく同じだ。
一人の遅延が、何人もの人生を侵食する。
それは才能の代償でも、創作の宿命でもない。
ただの怠慢だ。
鳥山明という規範
鳥山明先生は、締め切りを破らなかった。
週刊少年ジャンプでの連載中、個人の都合で原稿を落としたことは一度もない。1日徹夜して20分だけ寝て、3日連続で徹夜することもあった。ペン入れの記憶がない回すらあった。それでも落とさなかった。
鳥嶋和彦氏は著書『ボツ』の中で、「作家が絶対に締め切りに遅れない理由」という章を設けている。
鳥嶋氏は鳥山先生について、「僕は原稿を1回も待ったことがない」と語り、最初に印刷所の締め切りを全部伝えたのだという。締め切りの意味を、ただの数字ではなく「その向こう側にいる人間の仕事」として共有した。
そして鳥山先生自身の言葉として伝わっているのは、こうだ。
「納期通りに納めるのはそれが仕事なんだから当たり前」。
世界で最も売れた漫画家の一人が、そう言い切っている。
サラリーマン時代に社会の仕組みを知ったことが良かった、と。
私も同じだ。
タツノコで壮絶な現場を見た。アニメーターとして手を動かしながら、同時に、その現場の構造を肌で知った。
誰かが遅れたとき、何が起きるのか。誰が犠牲になるのか。
その景色を見た人間は、もう遅れることができなくなる。
恨まれたくない
正直に言う。
私が締め切りを守る理由の核心は、美学でも矜持でもない。
もっと泥臭い感情だ。
自分に関わる人を、絶対にそういう目に遭わせたくない。
そして、恨まれたくない。
タツノコの深夜のスタジオで、制作進行がネットを見ながら時間を潰していたあの光景。あの人は、待たせているアニメーターのことをどう思っていただろう。尊敬していただろうか。感謝していただろうか。
しているわけがない。
どれだけ絵が上手くても。どれだけ才能があっても。
自分の睡眠を奪い、恋人との時間を奪い、家族との夜を奪った人間を、人は静かに恨む。口には出さない。でも、心の中で値踏みしている。「この人は、こういう人なんだ」と。
クリエイターは、作品の質で評価されると思い込んでいる。
違う。関わる人間にとっては、「この人と仕事をすると自分の人生がどうなるか」が全てだ。
私はフリーランスとして13年以上やってきた。
どのクライアントとも長く続いているのは、絵が描けるからだけじゃない。
「この人は、自分たちの時間を奪わない」
「この人と関わっても、人生を犠牲にしなくて済む」
その信頼があるからだ。
締め切りは、他者の人生への敬意である
締め切りを守るというのは、自分のためにやることじゃない。
自分の向こう側にいる人間の人生を守ることだ。
編集者には恋人がいる。
制作進行には家族がいる。
デザイナーにも眠りたい夜がある。
私が1日遅れれば、その全員の1日が消える。
私が3日遅れれば、誰かの週末が消える。
私が「まあいいか」と思った瞬間、どこかで誰かが帰れなくなる。
私には、担当者の子どもの顔が見えている。
娘と遊ぶ時間を待っている父親の顔が見える。息子を寝かしつける時間を気にしている人の顔が見える。
その人たちの夜を、私の都合で奪っていいわけがない。
その想像力を持てるかどうか。
それだけの話だ。
鳥山明先生は、世界一の漫画家でありながら「当たり前」と言った。
私は世界一には程遠いが、その「当たり前」だけは同じ場所に立っていたい。
深夜2時のスタジオで、床に寝ているアニメーターの横を通り過ぎたとき。
制作進行の背中を見たとき。
私は決めた。
自分に関わる人間の人生を、絶対に犠牲にしないと。
それが私の、締め切りを守るワケだ。
