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SNSはコロシアム

2026 4/13

先日、とあるSNSの投稿を見かけた。

ある程度フォロワーのいるクリエイターが「尊敬していた同業者に会ったら、人柄に問題があって幻滅した」という趣旨のことを書いていた。名前は出していない。だからこそ厄介だった。

その投稿は大量に拡散され、リプライ欄では「あの人のことでは?」「いや、こっちだろう」と推測が始まり、便乗して「業界ってそういうもんだよね」と知ったような顔の外野が群がった。

本人は「ちょっと思ったことを書いただけ」のつもりかもしれない。
でも俺はこの光景を見て、ひとつの映像が浮かんだ。

コロシアムだ。

目次

SNSという名の闘技場

古代ローマには「パンとサーカス」という言葉がある。市民の不満を抑えるために、皇帝は食料と娯楽を与えた。コロシアムはその装置の中核だった。剣闘士たちが血を流し、観客が熱狂し、皇帝はその熱狂によって権力を維持した。

現代のSNSは、このコロシアムとまったく同じ構造で動いている。しかも、ローマよりはるかに巧妙に。

皇帝=プラットフォーム

X(旧Twitter)やInstagramといったプラットフォームは、闘技場を用意し、入場無料にし、世界中から観客を集める皇帝だ。

彼らの目的はシンプルで、ユーザーの滞在時間を最大化し、広告収入を得ること。そのために必要なのは、人々の感情が動き続けることだ。喜びでも怒りでも構わない。むしろ怒りのほうが滞在時間が長くなるというデータがある。だからアルゴリズムは、炎上を優遇する。

アルゴリズム=闘技場の仕掛け

ローマのコロシアムには、地下に複雑な仕掛けがあった。猛獣を放つタイミング、水を張って模擬海戦をする装置、剣闘士を不意に登場させる昇降機。すべて観客の興奮を最大化するための演出だった。

SNSのアルゴリズムはまさにこれだ。

炎上しそうな投稿を上位に表示する。対立する意見を隣に並べる。「〇〇さんがいいねしました」と通知を飛ばして何度も引き戻す。感情が動けば動くほどスクロールが止まらなくなり、スクロールが止まらなければ広告が表示され、広告が表示されれば皇帝の金庫が潤う。

ユーザーは「自分の意思でタイムラインを見ている」と思っている。でも実際には、見せられている。闘技場の仕掛けによって、最も感情が動く順番で、最も反応したくなるコンテンツを、最も中毒性の高いタイミングで。

ユーザー=剣闘士にして観客

ここがローマとの最大の違いだ。

ローマのコロシアムでは、剣闘士と観客は別の存在だった。剣闘士は奴隷や捕虜で、観客は市民だった。役割は明確に分かれていた。

しかしSNSでは、すべてのユーザーが剣闘士であり、同時に観客でもある。

冒頭の投稿をした人は、自分では「観客席からちょっと野次を飛ばした」つもりかもしれない。でも、大量に拡散された時点で闘技場の中央に立っている。しかも名前を出さずに同業者の人格を否定したことで、読んだ人全員に「犯人捜し」という新たな試合を提供してしまった。

リプライで推測した人たちもまた剣闘士だ。引用リツイートで持論を展開した人たちも。「いいね」を押した人ですら、アルゴリズムに「この投稿は盛り上がっている」というシグナルを送り、さらなる拡散に加担している。

全員が戦い、全員が見世物になり、全員が入場料を払っている。ただし入場料は金ではなく、時間と感情とプライバシーだ。

広告主=貴族席

コロシアムには貴族席があった。最前列の特等席で、血飛沫が見えるほど近く、しかし絶対に自分は傷つかない場所。

SNSにおける広告主がまさにこれだ。ユーザーが怒り、泣き、叩き、晒し、推測し、論破し、炎上するほど、タイムラインのスクロール量が増え、広告のインプレッションが増える。血が流れるほど客が集まり、客が集まるほど広告が売れる。

広告主は誰も傷つけていない。ただ金を出して席に座っているだけだ。でもその金がコロシアムの運営資金になり、アルゴリズムという仕掛けをより精巧にし、より多くのユーザーを剣闘士にしていく。

最も巧妙な偽装

ローマのコロシアムには、ひとつだけ正直なところがあった。

「ここは闘技場である」と全員がわかっていたことだ。

観客は血を見に来ている自覚があった。剣闘士は死ぬかもしれないと知って砂の上に立った。残酷だが、少なくとも嘘はなかった。

ところがSNSは「つながりの場」「自己表現の場」「自由な言論空間」という看板を掲げている。入口には「あなたの声を届けよう」と書いてある。中に入ってみれば闘技場なのに。

この偽装こそが、現代のコロシアムが古代より残酷な理由だ。

自分が剣闘士にされていることに気づかないまま、毎日血を流している人がいる。ほとんど誰にも届いていないのに、何千回も投稿で毒を吐き続けている人がいる。毒舌を個性だと信じて、プロフィールに堂々と掲げている人がいる。

皇帝からすれば最高の剣闘士だ。報酬を払わなくても勝手に戦ってくれる。しかも本人は「自由に発言している」と思っている。奴隷が自分を自由人だと信じている状態——これ以上効率的な支配構造は存在しない。

コロシアムの外に工房を構える

じゃあどうするか。

答えはシンプルで、闘技場に降りなければいい。

俺はSNSを使っている。作品を投稿し、多くの人に見てもらっている。でもSNS上で議論はしない。誰かの人格を評価しない。炎上に参加しない。思ったことがあれば、自分のブログに書く。

これは「逃げ」ではない。戦場の選択だ。

SNSに意見を書くということは、コロシアムの砂の上に立つということだ。アルゴリズムという仕掛けの上で、皇帝のルールに従って戦うということだ。どれだけ正しいことを言っても、文脈は切り取られ、意図は曲解され、見知らぬ人間が横から石を投げてくる。そしてその混乱のすべてが、プラットフォームの広告収入に変換される。

自分のブログは違う。自分の城だ。文字数の制限もない。アルゴリズムに表示順を操作されることもない。読みに来た人だけが読む。文脈ごと届く。

もちろん拡散力はSNSに劣る。バズることもない。でも、バズる必要があるのか? 本当に届けたい相手に、本当に伝えたいことが、本当の文脈で届く。それ以上に何が必要だろう。

思っていても流してはいけないもの

冒頭の投稿に戻る。

「尊敬していた人に会ったら幻滅した」——この感情自体は否定しない。誰にでもある。俺にもある。

でも、それをSNSに流すかどうかは別の話だ。

名前を出さずに「人柄に問題がある」と書く。読んだ人は推測する。名前が挙がった人は身に覚えがなくても疑われる。反論しようにも、そもそも自分のことかどうかすらわからない。一方的に撃てて、相手は防御できない。

これはコロシアムの構造そのものだ。攻撃者は観客席の安全圏にいて、名前のない剣闘士を砂の上に引きずり出す。

同業者の人柄をあれこれ言うなら、自分がお手本になれるくらいの人間的な質がなければならない。少なくとも、大勢が見ている場所で匿名の人格否定をする行為は、その条件を満たしていないと俺は思う。

思ったことのすべてを発信する必要はない。むしろ、思っていても流してはいけないものがある。それを判断できることが、発信者としての成熟だと俺は考えている。

血を流さない生き方

SNSは道具だ。使い方次第で武器にも毒にもなる。

俺はSNSを「ショーウィンドウ」として使っている。作品を並べ、興味を持った人が奥の工房(ブログ)まで来てくれればいい。ショーウィンドウの前で演説はしない。通行人と口論もしない。

コロシアムの外に工房を構え、そこで黙々と最高の仕事をする。看板は出すが、闘技場には降りない。

これが、現代のコロシアムで血を流さずに生きる、俺なりの方法だ。

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