FLASHアニメーターinANKAMA(2009~2013)

ANKAMA JAPANでFLASHアニメーターとして働いた4年間の軌跡です。

フランスのアニメ会社ANKAMAが日本に支社を作ることになった。

初期メンバーなら後々美味しい思いができるというヨコシマな思いもひっさげ22歳のときにタツノコから転職。解雇されるまで4年間勤めました。

◆目次

転職

2Dアニメーター&FLASHアニメーターとして入社

今までの経験と新たな技術を学ぶ挑戦。

タツノコでの経験を活かし、フランスのアニメ技術を学んだら最強じゃね?

FLASHの技術を覚えれば最悪一人でもアニメを創ることができる。

唯一無二の存在となり、将来稼ぎまくってモテモテになってやろうと

若きふぇにょんは希望と野望に満ちていた。

この頃から目先のことだけにとらわれず常に将来の事も考えていた。不安症だからw

待遇

海外のアニメーターは日本とは違い固定給で社会保障もしっかりしている。

もちろん日本の支社も同じ待遇。すばらしい。

面接の際に給料は月給22万円(手取りは18万くらい)で社長と話をつけた。

タツノコ時代のおよそ倍。しかも歩合ではなく給料。寝ててもお金がもらえるw

もう「仕事がなくて今日も無収入」ってことはない幸せ。

ただ、残業代も出ないし、ボーナスや昇給もないので額面で年収260万円。

世の中からしてみたらまだまだ底辺だけど20代前半の若者としては十分だし、アニメーターとしては破格の待遇なのでとても嬉しかった。

ようやく普通の暮らしができる希望に満ちていた。

勤務時間も9時~18時までと決まっていたので徹夜ももちろんなし。

 

一番良かったのは外資企業なので当然同僚に外国人もいる。というか外国人ばっか。

今でも覚えているのが初出社の日に会社のビル前に自分よりもでかい外国人がたむろしていてめっちゃ怖かった。

自分も身長180cmなので日本の中では大きい方なのだが社内では下から数えたほうが早いほど、みんなでかかった。

正直ショックだったw

メンバーたちは会社のお金で日本に来れるくらいのフランス本社の精鋭たち。

旅行も兼ねていたようで居酒屋に行ったり日本を楽しんでいた(会社終わりによく誘われたけど最初は怖かったので断っていたw)

当時会社の屋上で撮った集合写真

日本語が話せるのは二人くらいだったけどみんな本当に優しくて言葉は話せないけどお互いに寄り添う感じですぐに打ち解けた。

自分は英語が話せない典型的な日本人なので身振り手振りでなんとかコミュニケーションも取れ、すぐに友達になった。

日本だとなかなか友達できないのにねw

フランス人はもちろん、スペイン人の友だちも国際色豊かで楽しかった。

海外勢は陽気で楽しい。自分が海外のフォロワーさんと仲良くできるのは結構ここからきてるのかも。

逆に外国人でも日本に染まると日本人みたいに暗くなってしまうことが多いので環境ってやっぱり大事w

朝の挨拶は

「Ça va?」(元気?)からはじまり、「Oui」(はい)「SVP」(シルブプレの略、よろしくお願いします)

なども口癖になりすっかりおフランスザ~ンスw

彼らは日本のアニメが大好きで好意的だったので毎日が楽しかった。もちろん技術も高い。

日本のアニメ業界でひん曲がった心が日に日に癒やされていった。本当に周りの環境って大事。

その後「Putain」などの悪い言葉やエッチな言葉もたくさん教えてもらえる関係性になった。

やはりエロに国境はないのである。

また上司、部下という概念ではなく、あくまで同僚で「一緒に良いものを創る戦友」みたいな関係性がとてもよかった。

ちなみにここから今の自分と取引先様の関係性の考えは生まれている。

あくまで良いものを一緒に創る戦友なのだ。どっちが偉いとかいい出したらもうさよならだ。

また海外の方々は日本人みたいに表向きは褒めていても、実は影では悪口を言ってるなんてことはせずに「良いものは良い」「悪いものは悪い」とはっきりいうのでそこも自分は好きです。

もちろん傷つくこともあるけど悪意を感じないので素直に受け入れることができる。これはネット上でも感じることができる。

仕事に対する姿勢も多くを教わった。

「今でも十分良いけど、あなたがもっと良いアニメーターになりたい、より良い仕事をしたいならこうするともっと良いよ」

そのように自らの向上心に訴えかける指導がとても勉強になった。負けず嫌い精神に訴えかけるのがとても良い。

自分も結構な負けず嫌いで頑固者なのでw

向上心のない人はそこで成長が止まるので大きく差別化もできる。

余談だが、私は自分の担当のカットや仕事をさっさと終わらせてネットを見たりラクガキをよくしていた。

それを同僚のフランス人に見られ

「au boulot feignant!(おぶろ ふぇにょん)!」:働け なまけもの!

とジョークでよく言われていた。それがふぇにょんの由来です。確かになまけものなのと音が可愛くて好きなのでH.Nにしましたw

仕事

FLASHアニメーションといっても日本で巷にあふれているような簡素なものではなく本格的なアニメーション。

代表作は「wakfu」「Dofus」「 kerubim」など。興味ある方は検索してみてください。

自分は最初、今までの経験を生かして2Dアニメーターとして仕事をしつつ、FLASHアニメーションも勉強していた。

しかしこのままではどちらも中途半端になり、意味がないとおもって、最終的にはFLASHアニメーターとして社内転職するw

これが後々功を奏する。

しばらく社内には日本支社のリーダー・ウニョンさんの紹介で続々と日本の有名なスタジオのプロデューサーが見学にきていた。

この技術を見せるとみんな物珍しそうに、感動していた。

そして少しすると後輩のアニメーターも少しずつ増えてきた。

後輩と言っても社内での話で、実績的にはマッドハウスなどで作画監督をしたりキャラクターデザインの経験もある超先輩だったのだが。

しかし社内の雰囲気もあってか、日本の業界だったらありえないほど仲良くして頂いた。

朝ごはんを一緒に食べたり、ランチしたり。これが同僚かぁ、と感動したw

話を聞くと2Dに嫌気が差し、FLASHアニメに魅力を感じて転職したようだった。

もちろんこちらがソフト自体は先に勉強しているのでわからないところの相談、指導も良くしていた。

最初で最後の人に教える作業であったがけっこー気持ち良かったw

その方の言葉が今でも心に残っている。

「アニメはどんなにうまくなってもいつまでも際限がない競争をしなければいけないけど、FLASHなら技術を覚えればそのような競争をしなくていいので私はその世界にいきたい」

そう、絵には正解がないし、どんなに上手くなっても上には上が死ぬほどいるのでいつまでも終わりはない。

これをどう考えるかは個人の考えだけど、自分もしんどいなと共感した。自分より遥かに業界の多くを経験してきた方のお言葉だからこそ説得力があった。自分の居場所を見つけないとだめだと決心した。

確かにFLASHアニメーションは最初はとても難しかったが、この技術を学べたらめちゃくちゃ便利だし、とても勉強になった。

フランス本社のお仕事も手伝えるくらいのレベルになり、とりあえず目標は達成したのである。

転機

しばらくは順風だったこの会社の転機は2011年3月の東日本大震災である。

当時、毎週金曜日の昼休みに恒例のフランス語のレッスンを受けていた最中だった。

最初は揺れも激しくなく、フランス語教師と余裕をかましていたが後にアトラクションのような揺れに。

この時一緒にレッスンを受けていた同僚は揺れたらすぐに教室を一目散に逃げていったが正しい判断だったようだw

当時はスマホもなくガラケーで、SNSも全くやっていなかったので連絡手段がなくなって困った。

このときでもFacebookやTwitterは生きていたのでそのときに同僚に促され、初めて登録をした。

電車は止まり、みんな帰れなくなった。

津波の映像を見ながらもともと開催するパーティをしつつ、みんなこの日を過ごしたようだが自分はバスでなんとか帰ることができた。

地震に慣れている日本人ですらめっちゃ怖かったのであまり地震がないフランスのみんなはどれほど怖かっただろうか。。

しばらくすると原発の問題でフランスが自国に帰るように通達。同僚はみなフランスへ。

このとき自分もフランスに行くか聞かれたが

「明日行きますがどうしますか?」

といきなりすぎる相談だったし、この状況で家族を置いていくなんてとても心配で無理だった。

その前にパスポートを持っていなかったので強制的に残ることにw(これをきっかけにすぐにパスポートを取得)

日本人の同僚の何人かは会社のお金でフランス旅行ができるので家族を見捨てていったが、現地では割とひどい待遇を受け、一ヶ月後にはみんな体調不良で帰ってきた。その時この日本人の同僚たちを心のなかで「信用できないリスト」に加えたのは言うまでもない。

これがきっかけで日本やばい!とフランス本社も判断したのだろう。

それまで進んでいた2Dアニメーションの企画はすべてリセットされ、2Dアニメーション部も解散した。

もちろん社員の2Dアニメーターも解雇。外資系企業の容赦の無さを肌で味わった。

もしFLASHアニメーターに転向していなく、2Dアニメーターとしてぬるま湯に浸かっていたら自分もこのときに解雇だったのである。

その後はフランス本社とネットでやり取りをしながら本社の「wakfu」の仕事を手伝うことに。

世の中は地震と原発のことばかりだし、とても不安な時期だった、自分たちもいつクビを斬られるのか毎日怯えていた時期だった。

しばらくすると

最初に日本に来てくれた精鋭のスペイン人とフランス人の二人がもう一度日本に来てくれ、我ら日本チームを支えてくれた。

今でもこの二人には感謝しても感謝しきれない。

崩壊

しばらくはその二人の下で技術を高め、フランス本社と日本支社の合作の作品に注力していたが

完成間近と言うところでこれまた急にフランス本社の判断で企画を中止。

ここですべてが終わった。

日本に来てくれていた二人もANKAMA JAPANでの仕事を終え、自国に帰り、日本支社はオンラインゲーム事業を中心に方向転換することになる。

日本人だけになりすっかり空気が変わった。そう、日本のアニメ業界と同じようになってしまった。

帰るときに「お先に失礼します」と挨拶しても無視。

雰囲気も最悪の会社になった。

ここももう長くはないなという空気を毎日肌で感じていた。

なので実はこの時から自分は副業を密かに始めていた。

この直感はそんなに遠くない未来に的中する。

 

このように4年間楽しい事ばかりだったように思えるANKAMAですが

実は会社の経営自体は毎年なにかしらあって、めちゃくちゃ不安定だった。

内部がごちゃごちゃで22万の給料を18万に下げられたりしたこともあった。

安定には縁遠い会社で色んな意味でとても刺激的だった。

だがそのおかげで会社や周りの環境に振り回されたくないという思いがより一層強くなり今に至る。

誰にも依存してはいけないし頼ってはいけない。

ただ日本の業界にいたのではまず覚えることができない技術を学ぶことが出来たし結果的には転職してよかった。

もしここに入社しなかったら未だに月収20万以下で徹夜しまくってアニメ界の陰湿な環境で鬱になって死んでいたかもしれない。

元々ゲームの会社であるANKAMAなので

(社長いわく、オンラインゲームで儲けたので一生遊んで暮らせる金はあるが日本のアニメが好きだから道楽で作ったらしい)

日本でもオンラインゲーム「ドフス」を広めようとしたが、努力も虚しく結局会社の業績も思わしくないまま

もうあかんってことで2013年の10月にまず会社のお荷物のFLASHアニメーターを解雇。

私のことです。

翌年の2014年3月に会社自体も解散。これにてANKAMA JAPAN終了🙏

結局日本に根づくことはなかったFLASHアニメーションですが

その技術を使おうとしている試みはあり、実際に日本に来てくれた精鋭はサイエンスSARUで働いている。

個人的にもウニョンさんや湯浅さんにはお世話になりましたし、実はサイエンスSARU立ち上げ時にも直接声をかけてもらったけど今の仕事が好きだし、正直もう勤めたくないのでお断りさせていただきました。いつかまたご縁があったら再会したいですね。アニメはやらんけどw

その後もサイエンスSARU様からご依頼が来たことはありましたが色々な面で条件が合わなかったので丁重にお断りしました。

副業の一つとして、ANKAMAで働きながらもウニョンさんの紹介で「デコボコーン」というフラッシュアニメーションをお手伝いしたこともあります。

なんとその制作がタツノコw 主題歌を水木一郎アニキが歌っていたので打ち上げでお話することもできたゼーット!

色々ありましたが、普通の給料と待遇と生活の経験ができた貴重な4年間だった。

そしてもう一生ない「会社員としての社会人」も経験できたので感謝しかない。

余談

前述のようにすでに今のお仕事を副業でしていたので、たとえ解雇されたとしても収入面では全く困っていなかった。

毎日18時に本業が終わったらすっ飛んでまっすぐ帰って夜中の2~3時まで作業。

ぶっちゃけ不安定なフランスの会社なんて信用していなかったし大変だったけど命をかけていたので辛くなかった。

やっと今までしたかったお仕事ができたのでとにかく必死にやった。その努力と根性が今につながる。

ちなみに本業は22万だが副業でその倍以上稼いでこの時すでに月収は100万を超えていた。

まさに年収100万以下の落ちこぼれだって必死に努力すりゃエリートを超えることがあることを証明した瞬間。