2D Animator

私は専門学校を卒業し、20歳~22歳までタツノコプロで働きつつ、アニメ業界で修行をしました。

今思えば大人になってからの人生で一番つらい時期だったかも。職業はアニメーターです。

◆目次

研修

2年間通った専門学校の3月に控える卒業式を前に1月から研修が始まりました。

試用期間は3ヶ月。もちろんプロとして使えるようにならなければ3ヶ月経とうが永遠に研修のままと脅される。

最初はクリーンナップ。いわゆる原画トレス、線の練習である。

動画マンの基本中の基本であるが、自分はコレが本当に地獄だった。

今考えてみると、まず最初の教え方からおかしかった。

題材はドラえもん。曲線が多いので良い練習になる。もちろん定規は使ってはだめ。圧倒的に効率が悪い。

しかしその指導法は、長年の経験がある先輩動画マンの見本を渡されて

「この通りにやってみて。」だけ。

それだけではない。

できてもチェックしてくれる人もいなく、教育係の制作進行の方は談笑したり、漫画を読んでいるだけ。

「この会社大丈夫?」と正直思った。

自分が良いのか悪いのかも分からず、

毎日バスと電車を乗り継いで、片道1時間半、往復3時間をかけて国分寺のスタジオに出社して

ただただ線をひいては退社するという毎日。まさに修行である。

まだ新人にもなっていない身分の私は悩みながらもとにかくやるしかないので、

できるようになる気がしないが毎日真面目に出社し、続けました。

信念がない人間はまずここで脱落してるだろう。

学校は就職することが目的なのでもうほぼ行ってはいなかったけど、担任の先生に報告だけはしていました。

「地獄です。」とw

そして意味があるのかないのかよくわからないこの地獄の作業を一ヶ月ほど繰り返したあと

やっと社内の動画検査さんが見てくれることに。

※動画検査とは動画マン全体の仕上がりをチェックし、全体のクオリティを保つ仕事。

 

実は同じ学校からの研修は3人いて、動画検査も3人いたのでそれぞれに割り振られることに。

私を担当してくれた方の第一印象は正直「うわぁ」だったw

とっつきにくそう、雰囲気がジメジメしていて、昼間はいないか机の下で寝ている。

やっていけるのかなと、めっちゃ不安にw

しかし技術は高く、実際は指導も自分のスタイルにあっていてとても勉強になった。

キレイな線のひき方など実際に見せてもらえないと技術を盗めない、(口頭で説明されることが一番困る)ので目の前で描いているところを見せて説明してくれたのがとても助かった。

基本的に自分は朝方で先輩は夜型だったので、

帰るときや不在の時は机の上に置いておけば良い点&注意点など紙にメモしておいてくれる、実はとても親切な方だった。

この良い点も書いてくれるというところが人を育てるミソなのである。

このように第一印象ってあてにならないし、最初は悪いほうが実はよかったりすることのほうが多い。

そんなわけでようやく担当者が決まり、その後の課題は

  1. 線(トレス)の練習
  2. 歩き
  3. 走り
  4. 振り向き

と順をおって変わっていった。これは基本のテンプレなのでだいたいどこの会社もほぼ一緒だと思う。

当時の私は「これを全てこなせないとプロにはなれないのかぁ~」とビビりまくっていたが

結局はその研修もうやむやになり3ヶ月もしないうちに止め絵か口パクの動画なら本番をやってもいいということに。

嬉しかったけど、てきとーな業界だとおもった。

また専門学校で教わることなんてなんの役に立たないんだなーと実感も。

「専門学校の2年間よりも現場の3ヶ月のほうが圧倒的に勉強になる。」

業界人のこの言葉を実感。

基本的に専門学校はコネを作るところなのです。

コンビニとの掛け持ち

研修期間なので給料はもちろん、交通費も出ません。

一人暮らしだといきなりベリーハードモード。

だから面接の際に実家or仕送りor貯金があるか聞かれるところがあるのね。あらためてやべえ業界w

自分は実家だったのでこの面は家族に大変助けていただいた。

「4年間大学に行かせたつもりであと2年は面倒見てやる」といってくれた母親には今でも感謝している。

しかしさすがにこれ以上オスネカジリ虫をするわけにはいかんので同時にコンビニバイトも掛け持ちすることに。

バイトの給料は月/3万円くらい。

金額としては全然足りないけど良い経験でした。(結局、動画マン1年目まではコンビニバイトも併用することに)

「変なお客さんも多いし、その前に接客業なんて自分には絶対無理!」

と思っていたけどやってみるとなんとかなるもんです。確かに変な客も多かったし、最初はレジを打つ手も震えたけどねw

そこから「なんでもまずは挑戦してみる、やってみてから考える。」という経験を学ぶ。

そして接客の経験のおかげで自分は絶対に店員さんに偉そうな態度はとらないようにしようと思いました。

スタジオから帰ってきて夜中まで、スタジオに行く前の早朝にバイトをしていました。

たまに廃棄で出たお弁当などをスタジオに持っていくと先輩方に喜んでもらえたw

動画マン

いよいよプロのアニメーターとして動画マンとして働くことに。

普通は専門学校の時に教わると思うけど、この時にタップ割りを初めて知りました。

やはり専門学校の二年間よりも現場の三ヶ月のほうが得るものは大きいです。

最初は海外とか下請けの作品ばっかりやっていて名前が全然出なかった。出ても「タツノコプロ動画部」で終わり。

 

苦手な動画の綺麗な線もなかなかうまく引けず、

「線が汚いね。」

「生活のこともあって大変だと思うけど慌てないでやって」

と先輩によく言われてました。

自分は原画向きだったのでただただキレイな線を引いて間の動きを作る動画はつまらなくて仕方なかったw

でもそのことも師匠はわかってくれていたのが唯一の救いでした。

修行だと思ってなんとか耐えた時代。後々この経験が活きることになるので無駄ではなかったのだけど。

単価

一枚150円(下請け)~250円(社内動画OVA)

ひどい下請けの会社だと1枚100円とかもあるとか。そう思うと少しいいけど。でも…奴隷。

ちなみに線が多かろうが少なかろうが値段にそこまで違いがないという衝撃の事実。

しんちゃんもガンダムもそこまで値段に差がないという現実w

ちなみに最初の月の収入は3万くらいこれに最低保障で+1万円。

だから初月の収入は月/4万くらいでしたww業務委託なので社員ではないので社畜ですらない。

 

それからしばらくは先輩に教えていただきながら勉強しつつ黙々と動画マンをやっていたのですが

あるときに会社の体制が変わって他の会社から動画検査がくることに。

今まで3人の動画検査で新人を見ていたのだが

経費削減のためかその1人がすべてを見ることになり

自分の担当の先輩は動画検査を廃業。会社に愛想を尽かし、辞めてしまう。

地獄の始まり

当時の自分も若くて生意気だったのもあるだろうけどその新しい人が自分と性格が合わなくてかなりいじめられる。

一つのカットが終わって動画検査のチェックをしてもらうたびにドキドキ。

この時のストレスは半端なかった。白髪なども目に見えて多くなった。この時まだ20歳。

ある時「いつも教えてくれてありがとうございます。」といったら

「仕事だから」

と一蹴されたりもしたw

少しでも親しくなろうとして

「〇〇先生!」と呼んでみたら

「バカにしてるように聞こえるからやめろ」といわれたw

何から何まで合わなかった。

動画検査が動画スタッフの権限を握っている部長みたいなもんなので、自分みたいにウマが合わないと散々な目にあうのだ。

★悪い動画検査の特徴★

  • 動画マンは自分のOKをもらわないと次の仕事ができないのに本人は自由に出社・退社
  • 制作進行の人間とグルになり動画マンをいじめる。
  • 朝方の人間がいるのに夕方に来たり、しょっちゅう席を離れて席にいない。
  • 無断でスタジオからいなくなり、長時間戻ってこない。
  • 権力を武器に女動画マンとパコパコ♥(二人で出て行って2時間位いないってことは…?)
  • 容赦なくリテイクを出して無報酬のこちらに最初からやり直しをさせる(自分は固定給)
  • その事態が起きないように配慮しない。基本知らんぷり。
  • 見本を見せずに口頭だけでわかりにくく説明するので改善しない。
  • スタジオの空気を悪い方に変える(その人が来ると話してた人たちが黙る。)
  • 差別、ひいきをする
  • 固定給をもらってるので自分自身はあまり仕事をしない

すべて実話、経験談。

こんな人には気をつけましょう。(気をつけようもないが…)

そしてアニメーターの醍醐味、原画マンに挑戦するには

「月/300枚以上を3ヶ月続ける」

という規則まで誕生。それまでは「もう原画やってもいいかな」とおもったらできてたらしい。

それもどーかとおもうがw

動画経験無しで原画をやると動画の気持ちがわからないのでいろいろな方面に迷惑をかける事になるので最低でも2年は推奨。

その間にタイムシートの付け方やタイミング、良い原画のポーズを学ぶのだ。

自分はそこまでのモチベーションなかったけどw

300枚というと休まないことを前提だと日/10枚。1枚/200円でも日給2000円w

自分は手が速いが当時の作品は深夜アニメ、ときメモ系が多く、線が多いので大変だった!

でもなんとか300枚以上/三ヶ月を達成する。(エフェクトとかで枚数が稼げるものはとても嬉しいが今はCGが多いのでそれもなくなりつつある。)

すると平日ではなく一応会社が休みの、営業以外は誰も休んでいない土日に原画のテスト。

社内の作画監督もしている超アニメーターがチェックしてくれる。

結果はもちろん全然ダメ。実力不足を痛感。

タイムシートの付け方がまず勉強不足。カメラの角度、引く速度、歩きの速度、全て計算してタイムシートをつけなければならない。

絵の巧さはもちろん、芝居の付け方なども含め、こんだけ求められて1カット4000円wwww

本当に好きじゃないとマジで無理。

 

そしてテストが終わったあとに面談があり、てっきり談笑なのかと思いきや、めっちゃ詰められる。

「どんなアニメが好きなん?」

と聞かれたので正直に

「アニメあまりみないです…」

と思わず言ってしまったところ、

「〇〇さんみたいなうまい人だって日々研究してるのに君らみたい(下手糞が)なんなん!!?」

とボロクソに説教。ここで素直は良くないことを勉強w

実際当時の自分はキャラクターデザイン、作画監督系の「いかに似てるか」というアニメーターさんが好きだったので

作画ヲタの言う「この人の動きはすごい!」「やっぱ〇〇の作画だよな!」などはちんぷんかんぷんだった。

その後に勉強して少しわかるようになったが

今でも「動きが凄ければキャラが似てなくてもOK」という風潮がキライなのは変わらない。

似ててなんぼでしょ…。

 

体制が変わってから指導する人間に問題ありになってしまったこの会社。

うまいアニメーターが人に教えるのもうまいかというと、決してそうではない。

むしろ人間性がゴミな人のほうが実力が高かったりする。実力さえあればちやほやされる業界だから直すこともない。

絵が上手ければ人間性はゴミでも関係ない業界なのでパワハラもやりたい放題。それがアニメ業界。

 

その人も例外なく問題有りで、挨拶しても無視されるか、睨みつけられた。

でも打ち上げとかで勇気を出して話しかけると意外と気さくに話してくれたり

とにかくよくわからん性格でめちゃめちゃ気疲れした。

自分に縁がなかっただけなのだろうけど、こういう人が一人や二人じゃなかったので

このような経験から「絵描きにろくな人間はいない」と私がよくいうのである。

そもそも普通の人は絵を描いて生きていこうという発想にすらならんしなw

 

そうこうしているうちに自社で新しくアニメを始めることに。

ヤッターマンです。さすがに掛け持ちが無理になったのでバイトも辞めることに。

その前までは自社のOVAの「鴉」くらいしか自社作品はなかったがこの作品が鬼のように大変だった。

自社作品の動画単価は一枚230円。ヤッターワンとかも手描きなので全く割に合わない。

やっとこの時に初めてテレビに名前が載って、親も感動してくれた。

動画1年半くらいやって、ついに報われた。

しばらくするとさらに忙しくなってきて人出が足りなくなってきたのか、嬉しい事に第二原画もやらせてもらえることに。

※第二原画とは他人の描いたラフの原画をレイアウト修正などに基づいてちゃんとした原画に仕上げる仕事

動画と違って、綺麗な線を描かなくていいのでこれがもう楽しくてしょうがなかった。クリンナップマジで嫌いw

結局そのままずるずると時は経ち、原画テストは合格しないまま原画マンになる。

なんかデジャヴ。。ほんとてきとーな業界だぜ。

しかし、おかげで動画検査のご機嫌を伺ったりヘコヘコしないですむようになったのが一番嬉しかった。

このときの月収は完全歩合で3万~10万。金はもちろん彼女もなしw

原画マン

念願の原画マン

綺麗な線を引かなくてもいいし、自分で芝居も考えられる、やっとアニメーターになった気分。

何度もいうが動画検査の下でやらないですむようになったのが一番嬉しかった!

ちなみに原画は1カット/4000円くらい。

主に社内作品のヤッターマンを中心に仕事をしました。

絵柄もノリも自分にあっていたので楽しかった。

チェック

ちなみに原画マンになってからのチェックは原画テストを見てくれたアニメーターの方に変わった。

前述の通り気難しい方だったのでかなり気疲れしたがチェック内容はそこまで厳しいものではなかったので

動画検査にチェックを受けるストレスよりは全然マシだった。動画の場合は普通に収入0で全部やり直しとかあったからね…。

ただこちらはカットを上げたくてチェックを受けたいのに

チェックする当の本人がスタジオにいなかったり、机の下で寝てたりすることが多かったので(起こすわけにもいかないし)で、タイミングがストレスだった。

 

この時のタツノコはヤッターマンが実写映画になって嵐の櫻井くんがスタジオに来たりフィーバーだった。昔から自分が関わるとコンテンツが盛り上がることが多い。

ただそればかりというわけにもいかないので、他の会社の萌え系(バンブーブレード、明日のよいち!など)の作品をやらされた時は嫌で嫌でたまらんかった。

いろいろな絵柄を描くことのできる方って本当にすごいと思う。

今考えると、業務委託なのに選べないで制作の言いなりでやりたくない作品を断ることができないって意味不明だ。

徹夜

この時期は徹夜も多かった。

自分は朝方なので朝早くに会社に行くけども、朝早く行っても仕事がなく(むしろ誰もいない)

夕方~帰る時間に「今日中にください」と言われると徹夜コース。それでも根が真面目でいい人なので断ることができず。

若い身体に鞭打って徹夜で仕上げていた。もちろん一番はお金が欲しかったんだけどw

収入0

作画監督からの戻しがない時なんて、一日中座ってるだけなんていう日もあった。

出来高制なのでもちろん収入は0円。

家に帰るメールをするときに親に「今日も仕事なかったよ」と送ることもザラで

一人カラオケで時間をつぶしたり、街をさまよったり、意味なく落書きしたりマジで辛い時間だった。

当時はガラケーだし、もちろんTwitterやインスタなどのSNSも存在してなかったから個人資産を作ることもできず。

今だったら投稿しまくってそれなりにちやほやされてただろうけどw

原画の良い点

制作進行の方たちと仲良くなれたこと。アニメーターよりも制作進行の方々と仲良くしていた。

ドライブがてら一緒に原画上がりを取りに行ったりもしたり、帰れなくなったら車で送ってもらったり。

制作の方は本当に大変で、アニメーターが仕事をあげないと夜中も会社に泊まって

ネットなどで暇をつぶしながらずーっと待っていなければならない。

その間も人を待たせておきながら当のアニメーター本人は勝手に寝ていたりする。

その姿を見るたびに制作さんの人生ってなんだろうか。自分は絶対こういう思いさせたくない!

そう強く思った。

だから私とお仕事をしてくれる方の人生を奪いたくないので即レスは当たり前、

締切の1週間前には納品するのだ。

転職

ヤッターマンも大詰め、原画にもだいぶ慣れ、新OPなども少しやらせてもらったりしていた時期に

必死に働いて初めて月収20万円に到達した時があった。

通常は月/10万~13万くらいなのでこれでも快挙である。

あまりの嬉しさに制作さんへ

「うへへ…!今月はじめて20万いきましたよ!」

「おお!…でもそれって月またいで作業してもらっているから二ヶ月分だよね…」

「………..。」

 

ちーん。

自分の中で何かが終わった。「将来やばいぞ…。」とマジでおもった。

このまま大して好きでもないアニメに人生をかけていいものか。

目標にしていた作画監督目指してる場合じゃねえ、色々なものを諦めないといけないぞ、と悩み始めたそんな時、

専門学校時代の恩師から声がかかり転職を決めました。

まさに天の声。

海外のアニメ会社が日本に支社を出すということで募集しているとのこと。

この先生には学生の時もお世話になっていたのもあり、ずっと状況を報告したり、

「お前いつまでもタツノコなんかにいちゃだめだよ」っていつも言われていたw

とにかく縁が切れないようにしていたので声をかけてくださったのだ。

多くの学生は卒業したら連絡なんて一切よこさないらしい、こういうところでも差をつける。

だから人(特に目上の方)との縁は大事にしないといけない。

そして、結構迷ったが今のままでは将来が見えないので思い切って転職することに決めた。

結局決めるのは自分だ。先生のせいにしてはいけない。

終焉

意を決して辞めたいということをスタジオの作画マネージャー(制作進行)に伝える。

「ちょっと休んで考えて」「君だったら月/15万くらいの拘束料を払ってもいいと思うから待遇変えられるか聞いてみる」

といってくれた。止めてくれるってことは少しは実力を買っていてくれたようで嬉しかったが、

結局その後何事もなかったようにウヤムヤになって終わる。

またもやデジャヴ。結局最後までてきとーな業界。

まぁそのおかげで、愛と怒りと悲しみを背負いつつも未練なく辞める決意ができました。

 

また常識として退職する1ヶ月前に申告することは当たり前なのだがまだ辞めるまで一ヶ月あるのに一切仕事が振られなくなった。

しかもなんの通達もなく。

言葉より態度。本性が垣間見えた瞬間。

結局辞めていく人間なんてどうでもいいってことがわかった。コマの一つでしかない。言葉なんて信用できない。

そのおかげで新しい会社の研修に全力投球できたので結果的にはOKだったけど仕事はない=収入0だから、とてもひどい話。

楽しかったこともあるし、お世話になったし感謝もしているけど今でも当時の環境をたまに悪夢で見るくらいトラウマにもなっている。

正直二度と関わり合いたくないと思っていたが

恩師が「自分の価値を上げればいつか会社がお前の力を頼ってくる時が来る」とよく言っていた。

まさか数年後、本当に別ルートでまたこの会社の依頼受けることになるとはそのときは知る由もなかったのである。

この時期にどんなに会社に貢献しても自分自身に価値がないとカモられて終わることを学んだ。

若いうちに体験できて本当に良かった。

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